モルドバ概観 (2011年10月現在)

沿ドニエストル問題

 モルドバ共和国内を流れるドニエストル川の左岸地域(41.6万平方キロメートル)で,モルドバ国土の約12%を占める。この地域でモルドバ国内総生産の約15%を生産していると言われる。人口は約52.7万人(2009年1月,沿ドニエストル「経済省」)で,内訳はモルドバ系31.9%,ロシア系30.4%,ウクライナ系28.8%(2004年国税調査)。沿ドニエストル「当局」代表はイーゴリ・スミルノフ「大統領」で,独自の議会,軍隊,通貨沿ドニエストル・ルーブルを持つ。主要産業は金属産業(ルィブニッツァ金属工場),コニャック生産(KVINT(ティラスポリ)),同地域最大のモルダフスカヤ発電所など。

 

 ドニエストル川左岸にはソ連時代より多くのロシア人,ウクライナ人が居住していたが,モルドバ独立に先立ち当時のモルドバ社会主義共和国政府によって数々の民族主義的政策(モルドバ語の唯一の国語化やルーマニアを模した国旗・国家の制定)が打ち出されたことにロシア系住民が反発し,1990年9月に沿ドニエストルの分離独立を宣言,1991年12月にはモルドバに駐留するロシア軍(第14軍)の支援を受けて武装蜂起した。その際,スミルノフ沿ドニエストル「政府」代表は,モルドバ政府がモルドバをルーマニアへ統合させようとしているとして,同地域の独立の必要を主張した。武力衝突の結果多数の犠牲者を出した後,1992年7月,OSCEの仲介で停戦協定が締結され,翌8月兵力引き離しが完了した。1997年5月にモルドバと沿ドニエストルとの間で関係正常化の基礎に関する覚書が署名され,紛争解決に向けた一歩が踏み出された。
 当初,本件は民族的・言語的にルーマニアに近いモルドバ人を主体とするモルドバ政府と,これに反発するロシア系住民による沿ドニエストル「政府」との間の対立の構図で捉えられていた。しかし,現実には住民はドニエストル川両岸を日常的に相互に行き来し,多くはモルドバ語とロシア語を理解・使用している。現時点では,民族的・言語的な分離運動というよりも,沿ドニエストル上層部の利権維持のために分離状態が固定化されているという側面が強く,モルドバ政府と沿ドニエストル「政府」の間での国家体制に関する立場の相違と沿ドニエストル駐留露軍の撤退が問題の本質となっている。

 

 当事者であるモルドバ,沿ドニエストルに仲介役のロシア,ウクライナ,OSCEを加えた五者和平協議が開始された。2002年7月,OSCEはモルドバの連邦化を基本とした紛争解決合意案を提出,2003年2月,ヴォローニン大統領は右に修正を加えた新提案を行った。これを基礎にした新憲法策定合同委員会が設立され,協議が続けられていた。
 2003年11月,急遽ロシアが沿ドニエストル紛争解決案(コザク・メモランダム)を提示。右案では,沿ドニエストル及びガガウズの2つの連邦構成主体の地位の強化を含む非対称連邦の創設(沿ドニエストルとガガウズを連邦構成主体とする一方,残る大部分の地域は連邦政府の直轄とする考え),ロシア語の公用語化,モルドバの非武装化が提案されたが,野党及び欧米が強く反発しモルドバ側は署名を拒否した。その後2004年6月,モルドバは新たな「安定・安全保障協定」を提示し,関係国及び米・EUの署名を呼びかけた。
 2004年7月,沿ドニエストル「政府」は同域内におけるモルドバ語使用学校を閉鎖することを決定,モルドバ政府と沿ドニエストルの間の緊張が一時的に高まった。本件問題は10月にはほぼ解決したものの,モルドバ側はEU及び米の五者協議への参加を求めた。
 2005年4月,ユーシチェンコ大統領はGUUAM(当時)の席で仲介案(沿ドニエストル非軍事化と国際社会の監視下での民主的選挙施行を骨子とする)を発表し,関係国の支持を得た。これを受けて同年7月,モルドバ国会は「沿ドニエストル地域の特別な法的地位の基本原則に関する法律」を採択したが,沿ドニエストル側はこれをユーシチェンコ仲介案の一方的な拡大解釈と批判した。
 2005年10月,従来の5者協議に加えて,米国及びEUがオブザーバー資格で参加する拡大フォーマットで15ヶ月ぶりに和平交渉が再開(「5+2」者交渉)された。その後12月,翌年1月と2回に亘り交渉が行われたにもかかわらず実質的な進展は全くなかった。2006年2月末に行われた第4回交渉では,モルドバ代表団が議場を退席したため会議が途中で終了するに至っている。
 2006年秋から2007年春にかけて,ショヴァ再統合相及びトカチュク大統領補佐官が7回訪露しロシア側と沿ドニエストル問題解決のための協議を行うなどモルドバ・ロシアの二国間において活発な政治協議が行われた。
 2007年10月,ヴォローニン大統領は,モルドバと沿ドニエストルの間の信頼関係強化のための様々な分野での共同プロジェクトの実施,統一軍の創設等の提案を発表し,2008年4月,7年ぶりにヴォローニン大統領とスミルノフ沿ドニエストル「大統領」の会談が行われた。右会談では信頼醸成措置の発展・強化につき合意がなされ,インフラ整備,人道的支援など7つの分野の共同作業グループが創設された。両者の対話には一定の進展があるかのように見られたが,同年8月にグルジア・ロシア間の紛争が勃発すると沿ドニエストルは一方的に和平協議の一時停止を宣言。他方,グルジアでの紛争を受けて国際社会から紛争当事者による対話の重要性が指摘されるなか,9月,スミルノフ「大統領」はメドヴェージェフ・ロシア大統領との会談においてロシア側の説得に応じて和平協議の再開を約束,12月には非公式「5+2」者協議とヴォローニン大統領とスミルノフ「大統領」の会談が行われた。
 2009年3月,メドヴェージェフ大統領,ヴォローニン大統領,スミルノフ沿ドニエストル「大統領」による三者会合が実施され,直接交流の継続,信頼醸成措置の活性化等を謳う共同ステートメントが署名された。しかし,3者会合の後に予定されていたヴォローニン大統領とスミルノフ「大統領」の会談は,前日にスミルノフ「大統領」が沿ドニエストル高官のEU渡航制限延長に対する対抗措置としてEU及び米国の駐在代表の越境禁止を発表したことから中止された。
 2010年4月,沿ドニエストル当局はヴァルダニヤン記者をモルドバ政府によるスパイ容疑の疑いで拘束(2011年5月に解放)し緊張が高まった。一方,フィラト首相とスミルノフ「大統領」による複数回の非公式会談及び「5+2」者非公式協議が行われ,キシナウ・オデッサ間の鉄道路線再開の実現等の一定の進展も見られた。
 2011年に入ってからも定期的に「5+2」者非公式協議が開催され,同6月に引き続き9月にモスクワで行われた「5+2」者非公式協議において公式交渉再開が決定され,同交渉における議題の策定に向けた作業が行われることが決定した。

 

 モルドバ側は,沿ドニエストルが密輸の巣窟となっているとしてモルドバ・ウクライナ国境(沿ドニエストル・ウクライナ境界)の国境監視の必要性を強調してきた。これまでは,同国境では実質的に税関検査は行われていなかった。
 そのため,2005年11月30日にEUによるモルドバ・ウクライナ国境監視支援ミッション(EUBAM)が立ち上げられた。また,同年3月にはモルドバ・ウクライナ両国により,沿ドニエストルからウクライナ税関を通過する際にはモルドバ税関当局発行の文書提示を義務づける規則が導入され,現在までに大きな成果を上げていると言われる。但し,ロシア及び沿ドニエストル側はこれを「経済制裁」として非難している。

 

 1994年10月,モルドバとロシアの間で3年以内のロシア第14軍の撤退合意が成立したが,ロシア側の議会批准が終了していないとして事実上棚上げされていた。1999年,OSCEイスタンブール首脳会議において2002年末までに沿ドニエストル駐留ロシア軍の兵器,弾薬類の完全撤去が義務付けられたが,沿ドニエストル「政府」側の抵抗等もあり撤退が進まず,2002年12月のOSCEポルト外相理事会においては撤退期限が2003年末まで延長された。しかし,右期限も守られず,それ以降も撤収は遅々として進んでいない。
 2009年3月に行われたメドヴェージェフ露大統領,ヴォローニン大統領,スミルノフ沿ドニエストル「大統領」による三者会合では,沿ドニエストル地域における現在の平和創設活動が安定化のための役割を果たしていることを指摘し,これを沿ドニエストル和平の結果を踏まえてOSCEの後援による平和保証活動に変えていくことが合目的的であると述べる共同ステートメントが署名された。これについては,現在のロシア軍による「平和維持部隊」の駐留を担保するものであるとの指摘もある。

 
 
 
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