このたび、駐ウクライナ日本国特命全権大使として約三年間の任務を終了し、日本に帰国することになりました。2011年10月10日に着任してからの日々は瞬く間に過ぎ去り、今、振り返ってみると、ウクライナでの三年間はあたかも夢の中の出来事であったかのような思いがします。
着任した時は、2011年3月11日に発生した東日本大震災と福島原発事故から約半年という時期で、チェルノブイリ原発事故の経験を有するウクライナと原発事故後処理の分野での協力を進めていくことが重要な任務でした。この点に関しては、2012年4月に両国間で原子力事故処理協力に関する協定が署名され、同協定に基づく合同委員会も二度に亘り開催され、人工衛星による共同観測プロジェクト等の具体的なプロジェクトも開始され、大きな成果があったと考えます。
2012年には、引き続きチェルノブイリ原発視察等のための代表団の来訪等が続く中、これに加えて、日本とウクライナの外交関係樹立20周年という重要な節目の年を迎え、多数の文化行事等を開催しました。特にウクライナにおいて初めての、キエフ工科大学(KPI)大ホールでの裏千家千玄室大宗匠による茶道デモンストレーションと講演会、キエフ、リヴィウ及びドネツク3都市での日本舞踊の代表団による歌舞伎等の伝統舞台芸術公演、キエフ国立大学及びKPIでの松本紘京都大学総長による講演会等を実施することができたのは、両国の交流の歴史に残る成果であったと考えます。
一方、EUとの連合協定署名作業中止に端を発する反政権運動では、マイダン等で多くの血が流され、多数の市民が犠牲になり、2月末に政権交代が起こり、その後、クリミアが事実上ロシアに編入され、東部では戦争状態となり、再び、更に多数の犠牲者が発生しました。9月のミンスク合意と同覚書がありながら現在も停戦は実現せず、犠牲者の数は増大する一方です。国内避難を余儀なくされた人々の数も、現時点で判明しているだけで約40万人にのぼっています。
ウクライナはその独立以来最も困難な危機に直面することになりましたが、これはウクライナにとっての危機であるにとどまらず、戦後の国際秩序を大きく揺るがす、まさに世界の歴史への挑戦であり、現在の国際社会が結束して取り組み解決すべき最重要課題の一つです。
このようなウクライナの悲劇、被災地の人々の犠牲や苦悩を目の当たりにするのは私にとり大きな心痛以外の何物でもありませんでした。しかし、このウクライナにおいて、国家存亡に係る歯車が動く瞬間、瞬間を、ウクライナ政府及び国民と共に経験し、ウクライナ支援のために全力を尽くすという任務に当たることができたのは、赴任前には全く予期せぬ展開でありましたが、私個人にとっては国家、社会、人生を見つめなおす運命のめぐり合わせであったと考えています。
昨年11月以降の出来事を私なりに一言で表現すると、最初はEUとの連合協定の署名を求める政権への抗議運動でしたが、最後は民主社会を望む市民達が自ら立ち上がり、多数の血、犠牲を伴いつつも旧政権を自壊させ、革命的な政権交代をもたらしたということです。これはウクライナに民主主義を標榜する市民社会が根付く非常に重要な一歩であったと考えます。「マイダン」の意味はまさにここにあると考えます。ウクライナは過去(東側)ではなく未来(西側)を正面から向き、確かな歩みを進めることになったのです。5月の大統領選挙の結果はそのことを表わしています。
そして、更に、前政権の崩壊に危機感を強めたロシアがクリミアへ侵攻、ロシアに編入するに至り、それまでのウクライナ国内における政権対反政権派の対立という構図が、ウクライナ対ロシア、国際社会対ロシアという対外的、国際的な対峙構図に質的な転換を遂げた、と考えます。
日本は他のG7メンバー国と協調しつつウクライナの主権、領土一体性及び独立を強く支援し、一日も早い平和と安定の回復を訴えてきています。戦争により疲弊した経済の復興、国内避難民対策を含め、平時よりはるかに支援を必要としているウクライナを、引き続き支援していく必要があると考えます。3月に安倍総理が1,500億円の対ウクライナ財政支援パッケージを決定しました。法の支配を重視するとともに、「積極的平和主義」を標榜する日本として、今後も毅然たる対応をとり、世界の平和と安定の構築に取り組むことが重要と考えます。
もちろん、ウクライナには日本を含む国際社会からの支援の前提として、現在取り組みつつある汚職の根絶、法執行機関や司法の抜本的改革、市場環境の大胆な改善等、古い体質からくる諸制度の断固たる改革を成し遂げ、国際的により信頼される民主主義国家へと変貌を遂げてほしいと心から期待しています
二国間関係の進展に関して述べると、要人往来では、この3年間で2回の岸田外務大臣、初めての根元復興大臣及び茂木経済産業大臣の来訪を得ることができ、ウクライナ独立後21年間で3回にとどまっていた日本からの大臣の来訪の実績を大きく塗り替えることができました。また、2011年3月の東日本大震災及び福島原発事故後の日本からのチェルノブイリ原発視察等の代表団の来訪は、国会議員、政府関係者、地方自治体、専門家、原発企業関係者、ジャーナリスト、一般市民等64団体にのぼりました。
経済・経済協力分野においては、第一次円借款(約191億円)対象のボリスポリ国際空港ターミナルDの建設が終了し、2012年5月に竣工式が行われました。また、グリーン投資スキーム(GIS)事業が大きく進展し、ウクライナの旧式パトカーを日本製のハイブリッド・カーに更新することで合意し、第1フェーズの1,220台を引き渡し、更に今後348台の納入が予定されています。キエフメトロの95車両を日本の省エネ技術を用いて更新する事業も完遂目前です。上述の、本年3月に安倍総理が発表した1,500億円の支援パッケージに関しては、1,100億円の「ボルトニッチ下水処理場改修事業」の開始がキエフ市民の生活環境改善に非常に大きく貢献すると高い評価を受け、有償資金協力の「経済改革開発政策借款(DPL)」100億円、無償資金協力の「被災地ノン・プロジェクト無償資金協力」3.5億円は書簡交換を終了しました。国内避難民対策、東部復興支援のため、国際赤十字・新月社連盟(IFRC)及び国連児童基金(UNICEF)を通じた支援(計約2,600万円)も実施され、更に赤十字国際委員会(ICRC)及び国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を通じた支援(各15万ドル、計30万ドル)も決定されています。
貿易・投資分野に関しては、自動車セーフ・ガード問題がWTOルールに則って早期に前向きに解決されること、そして投資協定交渉に関し、日本企業のウクライナ市場進出を後押しする魅力的な内容となるよう、一日も早く締結されることを望みます。
原子力事故後協力については、既に1.で述べました。
科学技術協力の進展状況は、この3年間に両国の大学等の間で多くの協力取組が結ばれ、専門家間の協力が飛躍的に拡充しつつあり、また、2013年の7月、野依良治理化学研究所理事長の来訪を得て日本人ノーベル賞受賞者による初めてのキエフ(国立科学アカデミー)での講演会が実施されました。さらに、9月から12月にかけて、日本原子力研究開発機構(JAEA)によるウクライナ原子力安全規制院等の専門家との初めての核不拡散・核セキュリティ・セミナーの開催、大学や企業の研究者、技術者を対象とする「技術移転」に関する初の専門家会合の実施、日・ウクライナ科学技術協力委員会会合開催等の大きな成果が得られたことは重要です。
広報・文化・教育分野では、上述の外交関係樹立20周年記念事業に加え、2012年に高井美穂文部科学副大臣が来訪し、ウクライナ教育科学青年スポーツ省(当時、今は教育科学省と青年スポーツ省に分離)と教育中心の協力に関する覚書を取り交わしたこと、2013年に松本洋一郎東京大学副学長が来訪し講演会を実施して頂いたこと、2013年及び2014年の2年連続で世界的な日本人ピアニストであるフジコ・ヘミングさんのコンサートを開催したこと等の成果がありました。2012年と2014年の3月には東日本大震災を追悼する演奏会が指揮者上野隆史氏とウクライナの作曲家兼ホルン演奏家ヴァシリ・ピリプチャク氏の協力により開催され、多数のウクライナ人が来場し、東日本大震災の被災者を力強く励ましてくれたことも忘れられない思い出です。2012年から当地の親日企業が主催し、ウクライナで初めての総合的な大規模日本展示会「ジャパン・マニア」が開催されるようになったことも画期的な前進でした。また、2011年3月の東日本大震災以降、被災者を支援するため、毎年5月に「ゴルフ・ストリーム」が主催し、「シガー・クラブ」及びウクライナ・日本センター等が協力し、「桜フェスティバル」が開催され、日本文化の紹介と桜の植樹がおこなわれていることも嬉しいことです。
ウクライナから日本への国費留学生の数も、文部科学省の特別の配慮により3年間で年10名から年15名へと着実に増加しました。ウクライナにおける日本語学習者数は約2,000人と推定されているところ、今後も日本語弁論大会、各種文化行事等の機会を通じて益々日本、日本文化、日本語に関心を持つ人々が増えていくことを期待します。
私は着任するに際し、日本とウクライナの友好・協力関係の進展のため、自分にできることは何でもやろう、との決意を固めていました。そのため、報道関係者からの取材の申し込みには日程の調整のつく限り全て応じることとし、日本の政府、国民を代表する立場での情報、メッセージの発信に全力で取り組みました。また、時には一市民として率直な意見、コメントを述べ、一般の市民の皆さんと同じ目線から、日本人の物の考え方、見方を知って頂きたいと努めてきました。
情報の発信、意見の表明のみならず、駐ウクライナ大使としてウクライナという国、ウクライナの人々を理解するため、他の館員が訪問したことのないような場所も含めキエフ市内外のさまざまな歴史的建物、小規模の博物館等に妻と共に足を運んだほか、草の根・人間の安全保障無償資金協力プログラムの引き渡し式の機会や週末等も利用し、積極的に地方を訪問し、現地の人々と打ち解けた交流を行うことにも努めました。外国の大使が来訪したのは初めてであると先方から述べられたことも何度もあります。3年間でルハンスク州を除くウクライナの全ての州、クリミア自治共和国、特別市のセバストーポリを訪問し、行く先々で心からのもてなしを受けたことは人生最良の想い出の一つとなりました。1州のみ未訪問で残ってしまいましたが、これは、またウクライナを訪問する機会が将来与えられることを示す、目に見えない力によるメッセージであると考えています。
10月8日、キエフにおいて、離任に際するレセプションを開催しました。会場の都合上、当地で面識を得た中の一部の方しか招待することができませんでしたが、中にはオデッサ、ハルキウ、リヴィウ、チェルニフツィ等、遠隔地からわざわざ来訪して下さった方もありました。多数の方が1時間半近くも私と別れの言葉をかわすため列に並んで待って下さり、申し訳ない思いのする一方、ウクライナの人々の心の温かさを改めて深く実感しました。
1986年4月、チェルノブイリ原発事故が発生した際、私は在米日本国大使館の科学技術担当書記官として同事故後対応を担当しました。ウクライナとはこのような「縁」があり、3年前に駐ウクライナ大使を拝命して以降、殊更、私にとってウクライナは他の国とは異なる特別の国になりました。ウクライナが現在のような状況となったがゆえに、ウクライナを想う気持ちはウクライナ国民の皆さんと変わらなくなったと思います。今やウクライナは第二の祖国、日本に劣らずかけがえのない国となっています。
今年のキエフの紅葉は特に美しく、黄金に輝いているように思われます。妻と散策したシェフチェンコ公園の黄葉はもとより、離任の日の15日、車から見たボリスポリ空港周辺に広がる濃い山吹色の木々は、キエフの黄金ドームに劣らぬ素晴らしい美しさで感動しました。ウクライナを離れるのは非常に名残惜しく、時は前にしか進まず、後戻りしないのが残念でなりませんが、このような美しい黄金の秋に見送られキエフを発つのは幸せであると言えるでしょう。
これからも、日本とウクライナの友好関係の一層の進展のため、引き続きできる限りのことをしたいと思っています。三年間、私を支えて下さった全ての方々に心より深く御礼申し上げます。近い将来、再会できる日が来ることを心待ちにしています。
皆様の御健勝をお祈り致します。
ウクライナに栄光あれ!
2014年10月
ウクライナ駐箚日本国特命全権大使
坂田 東一