ウクライナの黒海沿岸は,古くからヨーロッパと中国を結ぶ交易の中継点となっていました。紀元前4世紀にこの地で栄えたスキタイ(古代ギリシャ)の文化にもアジアとの交流を証拠づける文様が残されています。現在でも,クリミア半島南西部の軍港セヴァストーポリ郊外には,ヘルソネソスというスキタイの街の跡が残っており,ギリシャのような雰囲気を漂わせています。また,13,14世紀頃の黒海北部沿岸は,ベネチアの貿易圏の中にあり,ヨーロッパと中国を結ぶシルクロードの中継地となっていました。つまり,ここはシルクロードの中継点,何もアジアばかりがシルクロードという訳ではありません。
現在ペチェルスカ大修道院の歴史財宝博物館に保存されている,スキタイの遺跡から発掘された黄金の胸飾りは,外側の文様が空想の世界の動物,つまり死後の世界を,内側の文様が人々や動物の争っている地上の生活を表し,その間に両方の世界を結ぶものとして植物の文様が刻まれており,歴史的にも,また芸術的にも貴重な品となっています。でも,この胸飾りがウクライナ東部のドニプロペトロウスク州の遺跡で発掘されたとき,その遺跡には既に墓泥棒が侵入した跡があったそうです。しかし,幸いにも黄金の胸飾りは,その盗掘跡からわずか15cm先で発見されました。かの墓泥棒がこのニュースを聞いたらさぞかし悔しがったことでしょう。
キエフ市の中心に位置する「独立広場」(マイダン・ネザレージュノスチ)は,旧ソ連時代には「革命広場」と呼ばれていました。1991年8月24日,ウクライナは独立を宣言し,同年末のソ連崩壊によりウクライナ独立が達成されました。武力衝突のない無血の独立でしたが,1990年夏には,キエフ大学を中心に学生のハンガー・ストライキがこの広場で行われ,ソ連共産党の指導的役割を謳った憲法の条項を削除することなどを要求しました。このデモは市民の賛同を得て,最後には当時のクラフチューク最高会議議長(初代ウクライナ大統領)が学生達と会うことにより解決されました。2000年には,政治スキャンダルを巡る「クチマなしのウクライナ」運動もこの広場を中心に行われ,その模様は全世界で放映されました。2001年8月24日のウクライナ独立10周年記念式典にあわせ独立広場は大きく様相を変え,現在は,地下ショッピング・センターを擁する文字通りの中心地として,ウクライナ市民と観光客で賑わっています。2004年11月には,大統領選挙における当局の不正な選挙干渉に抗議して,参加者数十万人といわれる大規模な集会がこの広場を中心にして繰り広げられ,やりなおし決選投票を実施する大きなきっかけをつくりました。この大規模集会・デモは当選したユーシチェンコ大統領(当時)のシンボル・カラーにちなみ「オレンジ革命」と通称されています。
2013年11月から2014年2月にかけてヤヌコーヴィチ大統領(当時)に対する大規模反政府デモがこの広場を中心におきました。政府と民衆の衝突により100名以上の死者がでました。現在この死者を記念する碑が広場のあちらこちらに作られています。
近代日本を代表する作曲家の山田耕筰とウクライナとの間に,意外なつながりがあることをご存じでしょうか。1920年代の半ば,ハルピンで山田はウクライナ生まれのピアニスト,レオ・シロタと出会います。シロタを高く評価した山田は日本での公演を依頼,これが縁となり,シロタは東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)の教授に就任し,多くのピアニストを育てました。また,山田は1930年代前半にウクライナを訪れ,キエフのウクライナ国立オペラ劇場でコンサートを行ったとのことです。
森繁久彌の代表作として知られる「屋根の上のヴァイオリン弾き」の舞台となったのは、ウクライナのシュテットルだと言われています。シュテットルとは、東欧におけるユダヤ人コミュニティを指す言葉です。
原作者のショーレム・アレイヘムは、1859年にキエフの郊外ペレヤースラウで生まれたユダヤ人の作家です。キエフとオデッサでジャーナリストとして活躍した後、米国に渡りました。
第二次大戦前、ウクライナにはヨーロッパの中で最も多くのユダヤ人が住んでいました。作品では、ウクライナにおけるユダヤ人の生活のみならず、当時のウクライナの様子も描かれています。第二次大戦におけるドイツの占領によって、ユダヤ人コミュニティは破壊されてしまいましたが、戦後徐々にウクライナに戻ってきて、現在では約1万人のユダヤ人が住んでいると言われています。有名なオリガルヒであるコロモイスキー氏やピンチューク氏もユダヤ教徒であることを公けにしています。